ひっくり返った三宝

 それは、私が女先生の元に修業に入って2年目か3年目の5月の大祭の時、伏見稲荷
大社から五台の御輿が出て東寺の御旅所に行きます。女先生はその神霊が乗った車の
どれかに乗って、伏見稲荷大社講務本庁の講員の代表の一員として東寺まで御輿のお
供をしなければなりません。
 支部長という役職は、本社でお祭りがある時には出来るだけ参加をしなければいけない
のです。支部が京都には近いという関係がありまして、女先生は伏見稲荷大社から毎年
祭りの時には呼び出しを受けていたのです。

 私と女先生は前日から伏見稲荷大社の宿泊所の参集殿に泊まっており、支部の講員さ
ん達は当日に来ると言うことで、お祭りにまでには時間あるから大八洲の瀧を受けましょう
ということで、女先生と二人して大八洲の瀧を受けていました。
 その瀧の途中、瀧場の上にあった奉納された中くらいの鳥居が突然に落ちて来ました。
見ると、その鳥居の端と足の部分が破損しています。落ちて来るはずもない場所に奉納さ
れた鳥居が落ちて来たとは不吉なことです。
 すると、女先生が言われます。昨日から不吉な予感がしているのです。今日、講員さん
の誰かが伏見に来ると大怪我をされます。ですから、可能性があると思われる講員さんに
は、今日のお祭りには来ないようにしてあったのです。
 一番に危ないのは○○さんですが、足止め(来れないようにする)の術をかけておいた
のですが、術を越えて来てしまったのだろうか?。
 その時、救急車のサイレンが近づいていて、近くで何かあった気配がします。早々と瀧を
切り上げて着替えをしていると、未だ携帯電話が無い時代でしたが、女先生の元に講員さ
んの誰々が交通事故に遭われて、救急車で病院に運ばれたと連絡が来ました。先ほどの
救急車のサイレンは、それだったのだと解りました。
 それは講員さんと言っても女先生も予期しなかった人。山口県で支部の扱い所長を勤め
ておられたところの講員さんでした。女先生が、思わずどうして。あの人は、今日は用事が
あるのでお祭りには行けませんと事前に言っていたはずです。
 女先生はお祭りに参加しなければならないとのことで、私がその救急病院までタクシー
で飛んで行きました。すると、怪我は軽かったのですが入院です。怪我した場所を見ると、
肩と足に包帯で巻かれていました。
 私は思わず落ちて来た鳥居の破損場所を思い出して絶句してしまいました。鳥居の端の
部分は肩に当たり、鳥居の足の部分はその扱い所長さんの足の部分を意味します。
 私は女先生から、その扱い所長さんは今日は来ないと聞いていたので、今日は来ない
予定ではなかったのですかと尋ねたところ、最初は行かない予定でした。扱い所の講員さ
んが伏見に行くとのことで、急に決めたのです。朝、神前に三宝にお米や塩やお水をお供
えしたところ、何故か三宝がひっくり返ってしまったので、行ってはいけないということなの
かとも思ったのですが、来てしまいました。来ては行けなかったのですねと言われます。神
様が行くなと教えて下さっていたのに来た私が悪いのですと言われます。
 そこで、瀧場で起きた出来事を話すと、そうでしたか。神様が鳥居で怪我の肩代わりをさ
れてくださったのですねと喜ばれる。

 病院から帰って来て、その怪我の内容を女先生に話すと、そうでしたか。それで、鳥居の
あの場所が破損したのですね。それによって、怪我が軽く済んだのです。
 神様を知らない方は、神を信仰していて怪我をするなどおかしいと言われますが、信仰
するといことで怪我をしないということではないのです。本来ならば死ぬべき所を大病や大
怪我で済ませてもらう。大怪我の段階ならば中怪我で済ませて貰う。小怪我の段階ならば
消して貰えるであって、信仰されていることによって、鳥居がその身代わりとして軽い怪我
で済んだのです。
 女先生は言われる。今日、あの方が来るとはまったく思ってもいなかった。神様が行くな
と三宝をひっくりかえされた意味を理解出来なかったのでしょう。もし、これが○○さんだっ
たら、その程度の怪我では済まなかったでしょうね。命に関わる大怪我だったでしょう。
 後日、その○○さんと出あった時、本社のお祭りに来られませんでしたね。あなたほどの
方がお祭りに来ないとは珍しい。すると、○○さんは言われます。そうですね。何が何でも
お祭りには行く私が、あの日だけは何故か行きたくなくて、家でゴロゴロしていました。私
はそれを聞いて、足止めが効いたかと納得していました。
 では、何故にその日に来ては行けない人と来ても別状が無い人があるのか?。そのこと
に関して女先生は方位の問題(金神の巡幸)だと言われる。人によって運命があり、その
日はその方面に行くと厄災に出会う。神はそのことを知っていて、その方面に行くことを阻
止されるのです。
 信仰をするということは、目に見えた物質的現世御利益ではなく、逆に目には見えない
日々の護りにあるのです。

 こうした三宝がひっくり返る等の出来事はあります。女先生は某稲荷神社を管理されて
いたのですが、その社務所で相談事を引き受けておられました。相談者は隣の間で控え
ていて、順番が来たら女先生のところに行く。お礼は、神社でしたので神社の祈祷料金。
祈祷をして、神霊のお告げはサービス。当時の祈祷料は2千円でした。
 待合室にはのし袋があって、そののし袋に祈祷料を入れて、三宝にお供えをする。その
中身がいくらなのかは、女先生は知らないのです。お供えがあろうがなかろうが、何も気
にしないのです。講員さんの中には月並祭にお供えをするので、相談に来る時には100
円玉を賽銭箱に入れるだけの方もありました。
 ある相談者が、その場で息子の嫁の悪くばかりを言う。すると、御神霊が怒られて、これ
婆。おまえがお供えとして持って来た金は嫁が神様のところに相談に行かれるのならばと
渡してくれたものであろう。そんなよい嫁の悪口ばかりではどうする。
  お前が供えた金は嫁が働いた得た金であろうが。持って帰れ。すると、三宝に乗せられ
ていたのし袋がその相談者の前に飛んで来て、そのおばあさんはほうほうの態で逃げて
帰られたとのことです。

 物が飛んで来るなど非常識だという方達はあるでしょう。しかし、私がお世話になった支
部では幹部講員の間では常識の範疇でした。皆、実際に見ているからです。
 神など無い。霊など無いという方達は、そうした事物を見た経験がないのです。体験・経
験不足から来る認識不足なのです。

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