牛頭の人

 これは、私が伏見稲荷講を離れて、言霊(ことだま)を使う方を師匠としていた当時の話。
その師匠宅で数名でこたつに入って談笑していた時、私は何か意識が違う世界に入り込
んでしまって、ある光景を見始めだした。
 その光景の中に侍姿の方が見える。着ている物は立派である。だが、わらで編んだ様な
深編み笠を被っていて、その顔が見えない。私の意識の目が、その深編み笠の中まで顔
を覗きに行った。その素顔を見た途端、私はギョッとした。目がギョロッとしている。?。人
間の顔では無い!。これは牛の顔だと解った。牛の顔を持った侍?。
 私の気配がおかしいと気付いた言霊の師匠は、その場に居たその師匠が霊媒として使
っている方を正座させて、この者(私)が今何を見ているのかその映像を転送するので、そ
の光景を見て私に報告しなさい。
 その言霊の師匠がサニワ者となり、霊媒者との間でやりとりが始まり出した。霊媒者「立
派な着物を着て刀を差しておられます。侍かと思います」。
 サニワ者「どのような風体か?」。霊媒者「解りません。笠を被っていて、その素顔が見え
ません。その笠が邪魔です。笠を取ってください」。サニワ者「解った。笠を取る」。そこで、
笠を切る仕草をする。
 もうろうとしながらその会話を聞いていた私の目に、笠がスパッと切られて、牛頭の顔が
見える。
 霊媒者「笠が取れました。これは!。牛です。顔が牛の人です」。サニワ者「何!」。「そ
れはどういうことだ?」。
 サニワをしていた言霊師の師匠は、霊媒者に向かい「寒川神社の素戔嗚尊様。霊媒者
にご降臨をお願いします。この者(私)が見ている光景の意味を霊媒者を通じて教えてくだ
さい」。
 その頃、私が見ている光景は一変していて、黒の和牛の牛がボンボン出て来る。次に
広々とした草原に大きな黒い和牛が草を悠然と食べている光景が見えていた。
 霊媒者「見えている光景は、実に立派な黒の和牛が草を食べている。それ以外には何も
ない。サニワ者「どういう意味なのでしょうか?」。霊媒者「この牛は、そこに居るこの者
(私)なり。この者は、将来は実に立派な牛となるだろう」。
 その頃、私はもうろうとしていた意識がはっきりし、通常に戻っていた。すると、言霊師の
師匠は私に向かって、お前は「牛」だそうだ。よかったなと笑います。
 当時の私は「牛」の意味が解らずに、自分の前世は牛だったのかと、ガックリしていまし
た。後日、「牛」に秘められた意味を知りました。
 素戔嗚尊様のことを牛頭天王と呼ぶ向きがあります。無論、私の映像に出て来た方は天
王等と呼ぶ高い位の方では無かったでしょう。しかし、霊的世界には「牛頭」と呼ばれる存
在の者が居ることになります。

 霊的世界を知らない方は、見えている光景を妄想だと言われます。もし、その光景が自
分の脳で見ている妄想ならば、他の人が同じ光景は見られないはずです。
 霊的世界に関わっていると、見えている光景が自分一人の妄想と呼ばれるものではなく
て、同様の能力を持っている者ならば、同じ光景を見るということを御存じないのです。
 私は霊能者と呼ばれる方の様に常時は見えません。しかし、稲荷講に所属している時、
その師匠に話しかけておられる御祭神を見る時がたまにはありました。その姿や形は師
匠の説明とまったく同じものでした。
 また、私が見た光景で意味が解らないと、霊能力者の方に説明すると、その映像を巻き
戻してその意味を解読してくださる方もありました。
 まったく意味が解らない映像で、霊能力者の方に解読をお願いした後、私に後編の映像
が出て来て、その意味を知ることがあります。後から霊能者の方から、依頼の意味が解り
ましたと答えを貰った時、後編を見ていたことにより、この部分を飛ばしているなと解ること
もあります。霊的世界の映像は、脳内妄想という単純なものではないのです。

 自分に霊能力が無いから、そんな世界は無いのだという主張は、頑なな心の持ち主に
過ぎないことを知らないと行けません。

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