神と狐考

 神と言った時、万物を創造したと言われる神の存在もあれば、私達が一般的に狐と言っ
ている庶民的な信仰形態もあります。
 無論、狐と言われているのは稲荷大神の眷属達のことで、稲荷の神を指しているのでは
ありません。
 稲荷大神とは、伊奈利とされます。首座神は伊勢外宮豊受の大神とされ、頂点は国常立
尊とも言われます。稲荷山の田中社の権太夫さんは大国主命様ともされます。稲荷大神
の名の元に、日本の神々が集まっておられます。
 日本書記では、国常立尊様は初発の神とされ、一般的に言えば創造神様です。

 私達に創造神という存在を説明しきれるものではありません。しかし、狐霊と呼ばれる存
在ならば、ある程度の霊能力があれば接することが出来ます。
 神は無い霊は無い。そうしたことを声高々に言って、信仰する者に神の存在を証明しろ
証明しろは、実におかしな話です。現実に伏見稲荷山と呼ばれる聖地が存在し、多くの人
達が狐霊とふれあっているわけです。
 その狐霊たる存在は神界では下級の段階かも知れません。しかし、下級であろうとも霊
は霊たる存在です。

 神は無い。霊は無い。人は死ねば終わりだ。それは、個人の信仰であって、誰も何も言
わないように、神は在る。霊は在る。人は死後も生きていると信じるのも信仰なのです。自
分は神は存在しないと信じているからと、神や霊の存在を信じて信仰する人を攻撃するの
は越権になります。

 神界の基本原則として、神霊の存在を認めなくてもかまいません。それは、神など無いと
信じる信仰の範疇なのです。
 しかし、神は無いと信じる者には神は存在しなくなります。信じていない存在が在るはず
もないからです。

 狐と呼ばれる下の存在であっても、その存在を認めることが出来るのであれば、その上
には更なる神達が在るという証明にもなります。蛇霊、天狗霊も同様です。そうした存在が
あるということは、私達には見えない解らない存在であっても、主と呼ばれる様な神も存在
して来るのです。
 神は「上」であり、私達はその「上」に向かって進まないと行けないのです。そこに、魂の
向上があります。
 信仰は、決して現世御利益の為のものではありません。見えない解らない存在が、その
存在を示す為に現世御利益という目に見えた形で示しているだけなのです。その点を間違
えてしまいますと、自己の魂を失ってしまうことにもなりかねません。

 よく、狐は騙すと言われます。神霊が言われることは100%正しいかと言えば、そんなこ
ともありません。
 どの御神霊であろうと、その御神霊が言われることが100%正しいのであれば、既に霊
界のことは人類に完全に解っていたはずです。だが、お釈迦様が出られたのは諸説あり
ますが、一番古い説で約3000年ほど前。それ以後、多くの聖者達が出て来られて神仏の
存在を説かれて来ました。
 しかし、未だ完全に解らないのです。解らないと言うことは、存在しないと言う意味ではな
いのです。それだけ奥域が深いと言うことです。
 神が解ったと言うのは解っていないのと同じです。解ったと言う人に質問しても答えがな
いでしょう。神は解らないが本当です。
 故に私達は神と言う存在に対して敬意を払い、自分と言う存在がいと小さき者と知るの
です。

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