自殺が出来ない

 霊能者と言いますと、何か世間からうんくさい目で見られがちになります。大多数の方に
霊は見えない。霊言は聞こえないという事実があります。ほどんどの人が、自分には霊は
見えない霊言は聞こえないとなると、見えている聞こえている者が異端児となります。
 しかも宗教世界において、霊能者でも無い者を霊能者に仕立て上げて、御先祖霊が地
獄で苦しんでおられると称して、高価な印鑑や壺を売りつけている基督系を名乗る悪質宗
教団体が存在して、反共の名の元に日本の政治権力と結びついている事実があります。
 そうしたところからも、どうしても霊世界はインチキと見られてしまいます。例えそれがイン
チキでなかったとしても、霊的世界には入ると解りますが、霊が出す「嘘」がまかり通ってし
まう世界です。それは霊的世界の構造から起きて来ます。
 私が霊界の命令で吉野の脳天大神に参拝したところ、その瀧場にあなたも霊能者になり
ませんかの張り紙がされていました。霊能者とは持って生まれた要素が大きく、瀧に打た
れて修業したから霊能者に成れるというものではありません。そんな即席霊能者にかかっ
たならば、被害者続出になってしまいます。

 ある程度の段階に進まれた霊能者の方達が、異口同音に言われることは、誰も霊能者
を望んで生まれたのではない。霊能者にならない方が、どれだけ幸せかです。
 本当の意味の霊能者の道とは、人間としてこの世に生を受けた身でありながら、過酷な
運命に翻弄されて泣いて泣いて涙も涸れ果てたものなのです。ですから、誰も霊能者の道
など薦めません。出来るだけ、普通の人で暮らしなさいなのです。

 私が霊界修業のお世話になった女先生は、3歳ぐらいの幼児の時に牛の妊娠を察知し
て、今度生まれるのはオスだメスだと言い当てて、褒美にお菓子を貰っていたと言われま
す。だが、遊ぶのは人の子と違っていて、山で白狐と一緒に遊んでいたそうです。人の世
が苦手であったと言われます。
 娘となった頃から瀧行に明け暮れ、一年間も毎日地元の瀧場に通った。だが、あまりに
も過酷な自分の人生に死んだ方がましだと、列車に飛び込まれた。当時は蒸気機関車の
時代で、人を轢いたと思った機関士は列車を急停止させ、ポーポーポーと緊急を知らせる
汽笛を鳴らし、機関車から降りて草むらを調べられた。
 すると、線路の脇にちょこんと正座している娘の先生を発見した。機関士は轢いていない
ことに安堵したが、確かに列車に飛び込んで来たはず。で、女先生に聞いた。機関車の前
に飛び込まれたはずだが?。女先生も、自分は機関車の前に飛び込んだはずなのに、ど
うしてここに座っていると自失であったと言われる。
 列車では無理と思った女先生は、当時は皆さん着物の時代で、着物のたもとに石を無数
に入れて川の中に入られた。だが、重しとして石を無数に入れているにも関わらず体が水
面に浮いて沈まない。あぁー。神様は自分を死なせてくれないのだ。死なせてくれないので
あれば、神に仕えるより道がないと神の御代(御台)となられたと言われる。
 この女先生を見た男の行者さんが一目みるなり、男でもこれほどの行を積んだ行者はさ
ほどいないだろうと感嘆されたほどの行者であった。伏見稲荷山で100日間五穀断ちの
行を2回も積んでいた方であった。そこには、自殺を試みても自殺が出来ない。神は自分
を死なせないと言う自信もあったのだろうと思われる。通常の者が100日間の五穀断ちな
ど不可能である。死んでしまう行である。
 霊能者としてもって生まれた素質の上に、誰も追随出来ないほどの行を積んで霊能者と
して完成に近づいたのであって、どんな道でも持って生まれた才能に人が出来ない努力を
積まないと花など咲くものではない。
 神など無い。霊など無いは誰でも言える。バカでもチョンでも言える。神仏を見る努力を積
まないで、自分の目に神が見えないから神は無いのでは無い。

 私は摩訶不思議な出来事に遭遇して、ある霊能者の元を訪れた時、私が子供の頃から
見ているお坊さん姿の先祖霊からの伝言をその霊能者を通じて受け取った。
 それは、私には瀧行も断食行も必要無いであった。瀧行も断食行も家系の先祖である私
が積んでいるので、私はする必要が無いであった。そのせいかどうかは解らないが、この
御先祖霊さんと同行している時は出て来ている霊が私にも見える。その御先祖霊の案内
がないと、さっぱり見えない。
 霊は、霊に懸かられて霊を見ることが出来る。見せる必要がないと思われる時は、背後
でバッチと霊線を切っておられるのが解る時がある。

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